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ミーニング・ノート実践者の体験談(1)

ミーニング・ノート実践者の体験談(1)

*こちらはミーニング・ノートを3年ほど書き続けている男性の体験談になります。

私がミーニングノートを始めた頃は、まさに仕事に悩んでいた最中でした。

それまで私は技術者として仕事をしていましたが、管理職になって、メンバーのまとめ役をやることになったんです。

外から見たら昇進に見えるかもしれませんが、責任が重くなり、私の心の内は悩みでいっぱい。

上司からも叱責される毎日で、悔しさと情けなさで眠れない日々が続いていました。

それと同時に、単身赴任が始まったり、コロナの自粛期間が始まったり、生活がガラッと変わってしまったことも、大きなストレスとしてのしかかってきました。まさしく、スパイシーチャンスの連続です。

当時の私のノートを見返すと、こんな言葉がたくさん書かれています。

「夜眠れない」
「体重は痩せすぎに突入」
「肩書きの重さを感じた」
「人前で叱責された」
「ありたい自分と、期待される自分の差が広がっている」

会社に合わせて自分が変わるべきなのか、それとも、もう会社を立ち去った方がいいのか、毎日悩みました。

ある日、何回も同じことがノートに書かれていることにも気がつきました。

ただ、そんな日々でも、ミーニング・ノートは心の支えになってくれました。

ミーニング・ノートを見返すと、自分が何を辛いと思っていて、何がやりたいかが書かれていたので、客観的に自分を見つめ直すことができたのです。

ある日、何回も同じことがノートに書かれていることにも気がつきました。

「大好きな技術の仕事がしたい」

まずは、仕事では叶えられないものの、勉強だけは続けようと思いました。

仕事が終わったら、夜遅い時間に技術の勉強もしました。
疲れていても、技術の勉強をすることは楽しかったのです。

また、ミーニングノートのコミュニティにも参加していたのですが、そこで、いろんな人のチャンスの意味づけを聞いていると、「生き方は一つじゃない。いろんな生き方があっていい」と徐々に思えるようになってきました。

数ヶ月経った頃に、「やっぱり、今の仕事は合わない。私は技術の仕事がしたい。」と確信できました。

今言わなかったら後悔するなと思い、仕事を変えることを上司に打診。

「もっと技術の仕事がしたいいので、異動させてください。」と思い切って告げることができました。

こういった主張をすること自体、私には大きな変化でした。「いい大学にいって、安定した大企業に勤めるのが幸せである」という親の価値観に縛られていたので、どこかで会社に従わないと生きていけないと思い込んでいたのです。

でも、自分が嫌だったら嫌だと言っていいし、自分らしく生きる選択をできるのだと気が付けました。

その後、さらに、  自分の生き方を考え直し、納得のいく生き方を選ぼうと決めました。

このまま大企業の中にいて、無事に定年まで勤め上げたとき、自分はどう感じるだろう。

私は、管理職としての役割を受け入れ、自分の技術に対する思いを押し殺すことに、とても大きな抵抗と悲しみを感じていました。私自身が技術に触れていたい、私自身が技術を作り上げたい、私自身が物理現象と向かい合いたい、という思いを抑えることができませんでした。 

このような状況を考えたとき、私自身がとるべき選択肢は二つでした。

ひとつは、立場を受け入れ、会社に要求される役割に従って生きること。
それはつまり、自分自身の思いを押し殺して、皆に望まれるままの在り方に変わっていくこと。

もうひとつは、自分自身の思いを受け入れ、この立場を捨て去ること。
大企業の管理職という、安定した雇用、収入、そういった守られた環境から飛び出して、自分の思いとともに生きていくということ。自分と思いを同じくする仲間達と運命を共にすること。

これら二つの選択肢を前に、真剣に悩みました。

自分の気持ちをミーニング・ノートに書き出して、可視化して整理し、じっくりと見つめなおしました。

そして、自分を縛るものが何だったのか、答えが見えた気がしました。
もとをただせば一つにつながるかもしれませんが、それは、大きくは二つありました。

ひとつは「生活の安定に対する不安」でした。
家族に経済的な不自由をさせたくない、家族がお金で困るようなことになってほしくない、たとえば、やりたい習い事もできず、行きたい学校にもいけない、そんな生活を送らせたくない、という思いでした。このためには、自分の人生を犠牲にしなければならない、そんな気持ちでした。

そして、それが本当に転職して実現不可能なのか、ということを客観的、定量的に見直してみました。
私の場合、そういった場合を想定しての夫婦二馬力共働き、長時間通勤に加えての家事育児という、時間的、体力的に大変厳しい生活を選んできました。

妻にも、自分の思いを伝え、相談したところ、「自分の好きなようにしていい、収入は当面、心配しなくていい」と言ってもらえたおかげで、自分の気持に素直になる生き方を選びとりました。

自分を縛るもう一つのものは、親の存在でした。
私の両親はすでに他界しています。存命のころ、私が小さい時からずっと、いい大学に入って大きな会社に入り、安定した生活を送ることこそが幸せの基本だ、と言い聞かされてきました。一生働くのだから、学生時代の短い間はしっかり勉強しろ、いい大学を出ろ、いい会社に入れ。そのように言い聞かされてきました。「寄らば大樹の陰」。母から聞いた言葉で、つよく印象に残っています。

また、小さなころから、親に対する依存心が強い子供だったと思います。親の言うことはよく聞く、親の顔色をうかがう、親が決めた高校に入る、親が決めた大学を目指す。これ以外の選択肢を、自分から積極的に選ぶことをしてきませんでした。このため、私は、何をするにも、親が気に入るかどうか、ということが、無意識のうちに、選択肢の第一番目に見え隠れしていたのです。この会社なら親も喜ぶだろう、自慢の息子であり続けられるだろう。そういう気持ちがあったのです。自分だけではなに一つ決められない、そう言ってもいいくらい、親の気持ちを強く意識する人間になっていったのです。

私の親は、学歴で苦労していました。
両親ともに大学を出ておらず、職も自由にはえらべない立場でした。生活も苦しく、私が通う塾や予備校の授業料で精一杯でした。このため、ぜいたくな暮らしなど望めず、外出や旅行も、数回の帰省をのぞいては、ほとんどいったことがありません。このため、母は、私が良い成績を収め、良い大学に入り、安定した大企業で順当に出世していくことを、何よりも喜びました。母から、「お前は母さんの最高傑作だ」こんな風に言われたこともあります。私は、そんな母の期待を裏切ることを恐れ、母が喜ぶように、ものごとを選び取っていくことになったのです。

しかし、入社してから、自分のやりたいことと、会社の仕事の間に乖離があることを感じ始めました。
もっと技術を積極的に開発したい、それなのに、どうして、こんなに、見せかけの開発ばかりするのだろう。本質を見ず、顧客ばかりか、社内でまで、自部門の開発成果を、実態以上に良く見せようとする。そんな仕事のやり方に、強い違和感を覚えていました。そんな職場に嫌気がさし、若い時にも、転職を意識したことがあります。しかし、母からは、大反対されました。「誰が給料をくれているのか、よく考えろ。そのおかげで生活ができるのだ。今は景気だってよくないし、息を殺してじっと我慢するときだ。」こんな風に何度も諭され、次第にわたくしは、そのような考えに倣っていったのです。

そんな私も、妻と出会い、結婚して、二人の子供にも恵まれました。
親として生きていくことになったのです。子供たちと日々過ごし、成長を見ていると、時間のたつのは本当に早いものです。一年もすれば、子供たちは、全く違った姿を見せてくれる。昨日できなかったことが、今日にはできるようになっている。日々、信じられないようなスピードで成長していきます。

ひるがえって、私自身はどうだろう。
1年前と、何が変わったのだろう。子供が生まれた時と比べて、どれだけ成長しているのだろう。

そう考えたとき自分のあり方に、疑問を抱くようになったのです。確かに、今の生活は安定している。大企業で、それなりに昇進し、給料も世間以上にもらえている。経済的に困ることは、そこまで多くない。しかし、それは、私が、やりたい仕事をせず、自分の人生と引き換えに、安定した給料をもらってきているからだと感じるようになったのです。

このままでいいのだろうか。
このまま大企業の中にいて、無事に定年まで勤め上げたとき、自分はどう感じるだろう。

数十年という人生の時間、およそ半分にもなろうという貴重な人生を、やりがいを感じない仕事にささげたことと引き換えに十分な生活資金を手に、年を取っていく。このような生き方でよいのだろうか。きっと自分は、このままでは、死ぬときに後悔するだろうな、と感じました。自分がやりたいことをやらず、お金のためだけに生きていく。自分の感じる違和感を押し殺して、周囲に迎合し、自分の個性を踏みにじって生きていく。こんな生き方で、後悔しないはずがない。

このとき、私は、自分が顔色をうかがってきた、私が愛していた、大好きだった両親は、すでにこの世にはいないということ、私が、生前の親が望む姿で、自分を押し殺して生き続けても、誰も喜んではくれない、ということに気づいたのです。

それならば、私は、何のために生きるべきなのだろう。何をすれば、誰が喜ぶのだろう。
そんな風に考えるようになりました。

何をしたっていい。好きなように生きればいい。

さらに、ここではまだ詳細に語れていない、わずか一,二年の間につながった、数々の素晴らしいご縁のおかげで、私は、ある答えにたどり着いたのです。

その答えは単純でした。

「どうでもいい。何をしたっていい。好きなように生きればいい。」

子供たちに不自由させないくらいの稼ぎがあって、しかも、妻は仕事にやりがいを感じて、やめたくないといっている。それならば、私も、妻と一緒に家庭を作り上げ、仕事については、自分のやりたいようにやればいい。そのような、一見すると、至極当たり前な答えに、ようやくたどり着いたのです。

こうして私は、大企業の管理職という、安定し、経済的には恵まれた立場を捨てて、自分のやりたいことを精一杯できる環境に飛び込もうと決めました。

私も、もう40歳を過ぎました。新しいことをするのは、きっと大変なことでしょう。仕事だって、甘いものではないはずです。それでも、安定した雇用に守られながら自分を偽って、自分にうそをつきながら生きていくことは、もうやめようと思いました。こうしてあの日、私は、新たな一歩を踏み出し、新しい自分になることを、決意したのです。

正直、転職を決めた今でも、心配です。今後、そもそも私が、次の職場でついていけず、職を維持できるという保証もありません。私がいくら技術が好きだったとしても、私の技術力では太刀打ちでず、結局は苦しい思いをすることも十分に考えられます。

しかし、たとえそんな状況になったとしても、今、こうして、自分の気持を押し殺し、不満を抱きながら生きている姿を子供たちに見せたくないと思いました。

子供たちには、たとえ厳しくて大変そうでも、生き生きと楽しく仕事をしている自分の姿を見せたいと思ったのです。

生きていくとはこういうことだ、と、心から湧き出る言葉で、子供たちと語らいたいと、強く望みました。

こうして私は、今、これまでの会社、そして、これまでの自分に別れを告げ、新たな人生へと旅立とうとしています。

ミーニングノートを通じて、自分が何を望んでいるのか、何が嫌なのかを整理できて、行動する背中を押してくれました。

今では、歯磨きをしないと気持ち悪いという感覚と似ていて、ミーニングノートも書かないと1日を終えられない!というほど、自分の毎日に必須になっています。

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